商品コード:1383-040t[SUPRAPHON] P.クレツキ/ ベートーヴェン:交響曲全集vol.1/交響曲1番Op.21, 8番Op.93

[ 1383-040t ] Beethoven, Paul Kletzki – Symphony No. 1 In C Major / Symphony No. 8 In F Major


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商品コード: 1383-040t

作品名:ベートーヴェン:交響曲全集-1/交響曲1番Op.21 | 交響曲8番Op.93
演奏者:P.クレツキ指揮チェコpo.
プレス国:旧チェコ・スロバキア, Czechoslovakia
レーベル:SUPRAPHON
レコード番号:SUAST 50791
M/S:ステレオ, stereo
枚数・大きさ:12インチ, 30cm×1
評価/レコード:7
評価/ジャケット:A
キズ情報:A面3時に無音軽スレ, 5時に極小3回出る点→7, B面10時に微かに5回出る軽スレ→7
レーベルタイプ:【旧チェコ・スロバキアでの輸出仕様のステレオ・オリジナル・タイプ】---赤/銀SC逆内溝, グルーヴガード厚手, Ⓟ1968, マトリクス:E 1227 E B/E 1228 D A, 1969年頃製造分, Manufacturing Date Code:69.1
ジャケット:【旧チェコ・スロバキアでの輸出仕様のステレオ・第2版】---共通デザイン・シリーズ表コートペラ, 5時に小型金ステレオシール付, ジャケ裏年号なし, ⓅなしⒸ1968(国内仕様のステレオ最古)
トピックス:【1/8番の単売は当社初出し!】---1番:1968年1月7日~12日, 8番:1967年年2月21日プラハ・芸術家の家(ルドルフィヌム)・ドヴォルザーク・ホールSUPRAPHONスタジオにてモノラル/ステレオ録音, 録音技師:František Burda, プロデューサー:Dr. Eduard Herzog, 1968年頃Supraphon A. Sによりコピーライト登録・同年SUPRAPHON国内仕様がSUPRAPHON:010 0468/110 0468(赤/銀三角ステレオ・レーベル)にて初リリース, 同年輸出仕様がSUPRAPHON:SUA 10791/SUAST 50791(当装丁)にて初リリース, これは輸出仕様の1年落ちの1969年度リリース分ステレオ・オリジナル・タイプ!, 1964-68年SUPRAPHON初のひとり指揮者によるベートーヴェン:交響曲全集録音の一つ, SV番号が存在は6/7/9番の3曲のみ(他は110 --), 110 --番号でも赤/銀三角ステレオレーベルは存在する, 1/8番の単売は当社初出し!毎年のようにプレスを繰り返すSUPRAPHONでは初年度プレスに当たる確率は低い, 1~2年落ち程度はほぼオリジナルとして差し支えない, ステレオ・オーディオファイル!, 演奏:★★★★+, 音質:★★★★★

商品詳細:パウル・クレツキは1900年ユダヤ人としてポーランドに生れる。ナチスを逃れ、'50年代から英国リバプールpo.の首席として活躍。EMIのウォルター・レッグが彼に目をつけ、HMV社にASDで録音を残した。その彼が'60年代('64~8年?)。何故、SUP社にチェコpo.とのベートーヴェン全集を残したかは謎である。チェコpo.が高い評価を下したということか?! 三角ステで聴く全集は、決して他レーベルに見劣りするレベルではない。端正で節度があり、豊かなプレゼンスを得られるオーディオ・ファイル!パウル・クレツキ(1900-1973)はポーランド生まれのユダヤ系指揮者。1921年にベルリンに留学した。1933年にイタリアに行くが、ファシスト政権の反ユダヤ主義政策のためにソ連に逃れる。しかし今度は1936年にスターリンの大粛清を逃れて、スイスへの亡命を余儀なくされた。1950年代に入ると英国に定住し、英国HMVグループの録音に多く参加した。1954年-1955年ロイヤル・リヴァプールpo.の音楽監督を務めた。ポストにはほとんど恵まれなかったが録音は非常に多く、全て客演となる。チェコ人ではないがSUPRAPHONで初めて一人指揮者によるベートーヴェン交響曲全集を1964年~1968年にかけて録音した。あまり知られていないがエルネスト・アンセルメがスイス・ロマンド管弦楽団を1967年に勇退すると、後任の首席指揮者となったのがパウル・クレツキであった。クレツキは1967-1970まで務め、ヴォルフガング・サヴァリッシュに譲った。天下のHis Master's Voiceに多くの実績を残した指揮者である点は再評価されてしかるべきだろう。作曲家としてもフルトヴェングラーに認められるほどの成功を収めた。フルトヴェングラーは、クレツキを弟子として自邸に住まわせたほか、楽譜出版のブライトコップフ・ウント・ヘルテル社やジムロック社に推薦、更にベルリン・フィルを指揮させたりするなど非常に親しい関係にあったという。また1952-1955年までイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督を務めている。1973年ロイヤル・リヴァプール・フィルとのリハーサル中に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。録音は驚く程多く、多岐にわたる職人的指揮者であった。プロコフィエフのような各声部が巧みに交錯したフォルムの曲も自身が作曲家である点を生かし、巧みな演奏を行っている。フィルハーモニアo.とはかなり多くの録音を行っていて、個性でアピールするタイプの指揮者ではない。逆に何でもこなせる職人的気質の指揮者。録音当時のチェコ・フィルはアンチェルが首席指揮者であった。何故SUPRAPHONがベートーヴェン交響曲全集という大プロジェクトをチェコ人ではない指揮者に客演で任せたのだろう?西側の一流楽団は既にベートーヴェン全集の録音を次々に完成させてていて、チェコ・フィルでも一人指揮者による全集録音を考えていた。アンチェルではなく完全な部外者であるクレツキを選んだのはチェコ・フィルを国際市場に打ち出す為、ドイツ系レパートリーに強いクレツキを客演に迎えた。ノイマンには能力的にもタイミング的にも尚早であった。クレツキは西側の指揮者であり、この全集を西側市場に売り出そうと画策したSUPRAPHONにとってEMIにも録音の多かったクレツキは適役であったということだろう。アンチェルのようなチェコ人指揮者は自国作品のイメージアップの為に国際的な「チェコ音楽の顔」として温存し、ドイツ作品は国外の西側指揮者で--というSUPRAPHONの戦略が窺える。民族音楽=自前の指揮者(アンチェル、ノイマン)で固める。国際的名曲=西側で売れる外国巨匠を招いて権威付けする。この二本立ての大きな方針が見えた。実際この録音はEurodisc、VOLOIS等からも発売され、「知る人ぞ知る良質な全集」として評価された。

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