商品コード:1365-038p[COLUMBIA] A.クリュイタンス/ アンリエット・ピュイグ・ロジェ(org) / サン・サーンス:交響曲3番「オルガン付」

[ 1365-038p ] Saint-Saëns, André Cluytens, Henriette Roget ‎– Symphonie N° 3 En Ut Mineur Avec Orgue


通常価格:¥ 5,500 (税込)

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商品コード: 1365-038p

作品名:サン・サーンス:交響曲3番Op.78「オルガン付」/第1楽章 Adagio — Allegro Moderato — Adagio-- | --第2楽章 Scherzo (Allegro Moderato) — Maestoso
演奏者:A.クリュイタンス指揮パリ音楽院o. アンリエット・ピュイグ・ロジェ(org)
プレス国:フランス, France
レーベル:COLUMBIA
レコード番号:FCX 447
M/S:モノラル, monaural
枚数・大きさ:12インチ, 30cm×1
評価/レコード:7
評価/ジャケット:A
キズ情報:
レーベルタイプ:【フランスでのオリジナル】---紺/銀音符内溝, フラット重量, 1957年頃の製造分, Pathéプレス, オリジナルレーベルだが初年度製造分ではない
ジャケット:【フランスでの第2版】---棒付厚手ボード(粗目紙厚手・ザラザラ表面), リブレット付
トピックス:1955年9月19-21日録音パリ・サル・ド・ラ・ミュチュアリテ(Maison de la Mutualité )でのモノラル録音, 録音詳細不明, フランスでは1956年頃Les Industries Musicales Et Electriques Pathé Marconi によりコピーライト登録・同年仏COLUMBIA:FCX 447(紺/銀音符内溝フラット盤・旧デザイン折返ツヤペラジャケ入り)にて初リリース→1957年頃同一レーベル・棒付きジャケ入り(当アイテム)→1959年頃紺/銀音符段付レーベル・グルーヴガード厚手盤→1964年頃同一番号・紺/銀音符段なしレーベル・グルーヴガード厚手盤:棒付薄手ボードジャケット入り---と変遷する, 1960年頃に10"・FC 25116も発売, この録音は1955年Grand Prix de l'Académie du Disque Françaisを受賞, 英COLUMBIA:33CX 1413, オルガンはアンリエット・ピュイグ=ロジェ( 1910 - 1992)が担当・日本とも縁が深い女性オルガン奏者だった, これぞ決定的名盤, これは1957年頃リリースのオリジナル盤入り第2版, 演奏:★★★★★, 音質:★★★★+

商品詳細:サン=サーンスの最も有名な「オルガン付」と副題の付くこの3番。暗調に始まるハ短調だが、第2楽章で(緩徐楽章)、荘厳なパイプオルガンによって賛美歌のメロディーが現れ、弦に受け継がれて美しいハーモニーを展開する。フランス系交響曲の名曲として必ず登場する。3番も結局のところ、クリュイタンスの録音がLP初期の見本型となっていることは疑問の余地がない。地味だが、中間部の美しさは比類なく、パリ音楽院o.の音こそぴったりくる曲だろう。この名曲はSP期から録音があり沢山のLPが発売されているが、クリュイタンス/パリ音楽院o.ほど決定盤とされる録音も多くない。 巨大な編成による壮大な響きによる大スペクタクルが味わえる交響曲であり、フィナーレの部分でオルガンと4手のピアノが付属し、オケと共にこれらが一斉に鳴り響く絵巻物のような作品。交響曲にオルガンを「独奏楽器」として登場させたのはサン・サーンスが最初となる。ここでオルガンを務めた女性奏者、アンリエット・ピュイグ=ロジェに関して。アンリエット・ピュイグ=ロジェ( 1910- 1992)はにフランス領コルシカ島のバスティアで生まれる。1919年にパリ音楽院に進み、1926年にイシドール・フィリップのピアノ科で1等賞(プルミエ・プリ)を得る。1927年にはジャン・ギャロンの和声科、モーリス・エマニュエルの音楽史科、アベル・エティルのピアノ伴奏科で1等賞、翌1928年にはノエル・ギャロンの対位法・フーガ科で1等賞、1930年にはマルセル・デュプレのオルガン科でオルガンと即興演奏の1等賞を獲得した。また、シャルル・トゥルヌミールに室内楽を師事する。1931年にはサン・クロティルド教会でシャルル・トゥルヌミールの補助オルガニストを務めた。1934年8月からパリ大シナゴーグ(~1952年)とルーヴル・オラトリオ修道会(~1979年)のオルガニストに指名される。1957年からパリ音楽院ピアノ伴奏科の教授に満場一致で決まり、ナディア・ブーランジェの後任として多くの弟子を指導する。1979年パリ音楽院教授を退職し、同院名誉教授となるが同年教え子の永冨正之らの尽力で来日し、東京藝術大学にてソルフェージュ講座に籍を置き、声楽、ピアノ、オルガン、室内楽の分野で1991年まで客員教授として教鞭を執った。ピュイグ=ロジェは1991年3月に芸大を退官し、次の専任先の国立音楽大学の宿舎に移り、年末まで住んだ。12月に宿舎で転んで捻挫し、その後の血液検査で白血病が発覚、治療のため年末にフランスへ帰国した。パリでは自宅アパルトマンで療養の静かな日々を過ごし、1992年11月24日に自宅で息を引き取った。葬儀は11月30日に音楽葬で行われた。2003年に記念企画として、ピュイグ=ロジェの遺稿やインタビュー、弟子たちの言葉をまとめ、作品や演奏会の記録、略年譜を付した『ある「完全な音楽家」の肖像:マダム・ピュイグ=ロジェが日本に遺したもの』が音楽之友社から出版され、長女ポリーヌ・ピュイグが序文を寄せている。

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